観術総合研究所 - 代表・内海昭徳(うつみあきのり)-

ひとり一人の尊厳性と可能性が花開く、尊厳社会へ

普通の国じゃない平和の国、日本 〜「平和憲法」をめぐるあれこれ〜

今日は憲法にまつわる話をざくざく整理してみたいと思います。

異論反論も出てくるかと思いますが、どうぞ最後までお付き合い下さい。

 

最初に書いておきますと、私は今までとは全く違う「教育の力」というアプローチによって、新たな日本の平和外交の方向性を作っていくべきだと思っています。

 

なぜかというと、

戦後の日本の平和論のあり方は、色々いびつだなあと思うからです。

 

日本が戦争に負けたのが1945年8月15日(正式には9月2日)。

今の憲法が施行されたのが1947年5月3日。

もちろん、GHQの占領期間中です。

 

今の憲法の草案がもともとGHQによって作られたものであることは、少しでも憲法のことを学んだ人であれば誰でも知っています。

つまり占領期間中に勝者アメリカ主導でつくった憲法であって、国民主権憲法とはいうものの、日本国民の総意が反映されているわけではありません。

日本の「平和憲法」、とよく言われますが、そもそも主権国家としては、これはいびつなことです。

 

かつて福田恒存は、現行憲法をさして、「座り心地の悪い椅子」と評していました。

例えるなら、自分の家の家訓や自分の会社の社訓を、誰かよその侵入者がつくったようなものですから、いびつなことです。

それと関連して、憲法前文GHQ案の英語の翻訳調で、日本語的にいびつなこともよく指摘されますね。

 

前文に関して改憲派からは、もともと戦勝国アメリカがつくった文言ですから、「侵略国家」日本がもう戦争しないように決意させた憲法だろう、みっともないじゃないか、というようなことも指摘されます。

そういう脈絡の認識で読み直すと、確かにそういう感じがします。

 

さて平和憲法と呼ばれる理由は前文と9条から来ていますが、もう少し正確に言えば9条の第2項のことです。

戦力の不保持と交戦権の否認ですね。

日本は戦争しないよ、だから戦力も持たないし、戦う権利も認めないよ、と。

 

これは改憲派がいうような憲法制定のいきさつから考えれば、勝者アメリカによって、「侵略国家」日本が軍隊の武装解除をされて後、もう戦争しないようにされたのだ、という脈絡でみたほうがスッと理解ができそうです。

別にアメリカが日本に対して、世界に誇れる平和国家のモデルになって欲しい!と願っていたわけではないでしょうから。

 

ちなみに戦争放棄をうたった9条第1項は、日本のオリジナルでもなんでもなく、1928年のパリ不戦条約というものに載っている文言を、ほとんどコピペしたようなものです。

これもよく指摘されますね。それを誇っているのも確かにいびつなことです。

 

さて、その「平和憲法」ですが、戦力不保持じゃやっぱりやっていけないなあ、という事態にあっという間に直面します。

 

1950年6月25日に北朝鮮が韓国に侵略して勃発した、朝鮮戦争ですね。

 

冷戦構造の代理戦争に半島が巻き込まれ、アメリカとしても、日本にも武力をもたせないと、となります。

 

アメリカの占領期間中である1950年8月10日、警察予備隊ができます。

それが後に保安隊となり、今の自衛隊になりますね。

 

ですから、憲法前文で言う「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」という文言は、理想としてはよいですが、実は憲法制定からたったの3年で、現実的にはやっぱりダメだねということが既に明らかになってしまってるんですね。

 

特に20世紀の国際政治は、まさしく「万人の闘争」の場でした。

この、世界の残酷な現実を直視しない理想主義も、いびつだなあと思います。

 

こういった背景が根っこにあって、そして近年の中国の脅威もあって、日本の平和のためには集団的自衛権の限定的容認と、ひいては憲法改正までが必要だ、という論理につながります。

 

日本が本当に自立するには、日本人の手で憲法を作るべきだ!と。

 

それは理解できますが、戦後日本の平和は、実際は裏に日米安保があって担保されていたからだという指摘も、ほとんど異論はない事実だと思います。

 

ただ、日米安保に限らず、プラザ合意や近年のTPPを見ても、日米関係は決して対等関係でなく、いびつな主従関係にあるじゃないかということもよく指摘されますね。

 

であれば、真にアメリカからの自立を目指していくのなら、本当は、日米関係と安保体制そのもののいびつさを乗り越えないといけません。

 

実際アメリカは、疑惑が満載の9.11テロの後、戦争意志のないアフガンに進行し、大量破壊兵器なんて本当はなかったイラクにも攻撃しました。

 

もし、このアメリカの「正義」にひきずりまわされるのが日本の自衛隊の未来だとしたら、それは本当にいびつ極まりない話です。

 

日本がどんなにハード面での軍事力強化をしても、全てが電子制御でコントロールされる今の時代、実際は部隊運用のソフトウェアは、全部アメリカが握っているとも言われます。

 

つまるところはアメリカの軍隊の一部になるんじゃないか!という懸念は、かなり真剣に考えなければいけないところでしょう。

 

さてそれでは逆に、アメリカの戦争に巻き込まれず、軍事力を行使できる「普通の国」になるのでもなく、日本は平和国家としての誇りを持って、「平和憲法」を守れ、という観点はどうでしょう。

 

これは、根本的にちょっと感覚的にいびつな点がありますね。

 

何かというと、この「平和憲法」をそもそも草案したのがアメリカなのに、そのアメリカの力の外交に対しては、「反米!」「在日米軍反対!」というアンチの論理展開になってしまうことです。

 

まあ、もとはアメリカが作ったとしても、平和憲法は素晴らしいのだからそれはそれでいいのだ!

という論理も成り立つのかもしれませんが、やはりどことなく「座り心地の悪い」論理だなあという感はいなめません。

 

しかも、反米と在日米軍の撤退を貫けば、つまるところは日米安保の廃止にまで議論が進むことにもなるでしょう。

 

そのとき、軍隊を持たない反戦平和の「平和憲法」だけで、冷厳な国際社会のパワーバランスの中で、尖閣諸島問題に、ミサイルの脅威に、テロの脅威に、対応しきれるのでしょうか?

 

アメリカがつくった憲法には反対するけど、アメリカ外交には従う。

アメリカ外交には反対するけど、アメリカがつくった憲法には従う。

現実論と理想論のアンバランス。

 

なんか、いびつだなあと思うのは私だけなのでしょうか。

 

私は別に思想的に反米では全くないのですが、いろんな意味でアメリカという国の傲慢と矛盾はしっかり指摘するべきだと思います。

 

ただ、ものすごく重要なことがありますね。

 

それは、単にアンチのレベルの批判で終わるのではなく、本当の意味で日本の独自性を持って、アメリカすらも包み込める、軍事力によらない「平和の道」という代案をどのように提起することができるのか、ということです。

 

代案なき批判、実践なき論理では、現実は変わりません。

それが仮にとても長い時間や手間がかかるものであったとしても、はっきりとした代案があれば、あとは「選択」の問題になります。

 

その代案については、また改めて明日書いてみたいと思います。

 

丁寧な説明のないおおざっぱなまとめ方なので、伝えたいことがしっかりお伝え出来ているのか氣になるところもありますが、そのうちしっかりとした文章で整理してみたいと思います。

最後まで読んでいただいて、どうもありがとうございました。