観術総合研究所 - 代表・内海昭徳(うつみあきのり)-

ひとり一人の尊厳性と可能性が花開く、尊厳社会へ

自由民主主義を越える、福岡•日本発の尊厳民主主義への挑戦

本日、2014年福岡市長選挙七日目です。

今日で折り返し、明日から後半戦に入ります。

 

新聞、テレビが様々報道しています。せっかくの政治参加の機会なので投票率が上がれば良いですが、客観的に見てこのままだと今回も低調に終わる可能性が非常に高いですね。

福岡市長選は毎回投票率は40%ちょっと。

前回の20代の世代の投票率に至っては、20%ちょっとです。

なんと、五人に一人。

残念ながら、いかに福岡市にデモクラシーの政治文化が根付いていないのか良くわかります。

 

今回は四年前のように民主党は力がなく、結局のところ、組織票、固定票と呼ばれる集票力を持った既存政党である自民党が強い選挙戦です。

 

もっとも、戦後半世紀以上に渡り、地域と日本のために政治勢力を成長させ、そこに各人の夢も志も時間もお金もエネルギーも注いできたのですから、ただ一概に自民党のやり方を否定するつもりは私はありません。

自分が支持する候補者を人に勧めて、その人に投票依頼をすること自体も、自然なことだと思います。

 

ただ問題は、自民党政治の場合はそれに強大な利権が深く絡んでいることです。

もっとも利権は、裏返せばそれが仕事になっている人がいて、その人の生活や家族もあるわけなので、それはそれで大切だと思います。

ただ結果的に、そうやって選ばれた市長が、利権のしがらみに絡めとられて、利益誘導や公約違反を繰り返し、市民に背を向けていくようになってしまうことは大きな問題でしょう。

 

そしてそれ以上に深刻で本質的な問題は、有権者が自分独自の意思決定など全くなく、言うなればロボットのようになって、ただ組織のトップに指示されたから言われた通りに名前を書いて投票箱に入れるだけという、デモクラシーの自殺行為があることです。

 

これは、長いものには巻かれろ、右にならえの、日本人の悪い性質だと私は思います。

集団の意思決定に自分の意思を委任、依存してしまえば、当然ながら自己責任の意識もほとんどなくなります。

自らの意思で考え、判断し、投票した人物ではないのですから、そのようにして選ばれた人が本当の意味での市民の代表者と呼べるのかも、だいぶん怪しいものです。

 

さらに問題なのは、そうやって集団の意思に委任した政治文化が、最終的に誰のためになってしまっているのかという現実的な問題です。

 

かつては政治の権力は、王や貴族といった生まれながらの一握りの特権階級だけが持っていました。

それが、フランス革命に代表される西洋の市民革命によって、身分や財産、性別に関係なく、ひとり一人が主体的に政治に参画できるようになりました。

その権利を勝ち取るために数えきれない人が血を流し、人生を捧げてきたからこそ、投票権というのは非常に重みを持ったものだと考えられています。

 

いわゆる自由民主主義を勝ち取るための戦いは、後にリンカーンの演説にも象徴されるように、人民の、人民による、人民のための政治を行うという目的のもとに遂行されました。

 

人民の(people)、という訳でなければ、市民の、でもよいですし、国民の、でもよいでしょう。

そして同時に、ただその時代を生きる人だけのためではなく、その地域や国家の歴史を紡ぎ続けた先人たちの意思も引き継いだものでもあり、またこれから先の時代を生きる未来世代のための意思決定でもあります。

 

そういう風に考えた時、政治の方向性はそれぞれが組織集団の画一的な意思決定から分離し、独立した個人としての意思決定によって決められるべきですし、それは当然、市民のため、国民のためであるべきです。

 

逆に、自らの意思を放棄して、漠然と集団の意思決定に委任したとき、その集団の意思の実態が果たしてどこに向かうのかということをしっかりと見定めなければ、いつの間にかヒツジの群れのように、誰かが決めた方向性に追い立てられ、谷底に追い落とされる危険性もあります。

 

こんなことをつらつら書くのは、私は今の日本の自由民主主義が、まさしくそのような状況に陥っていると思っているからです。

 

それは、先日取り上げた国家戦略特区の一事をとっても明らかですし、今の日本の政治構造、今の福岡市の政治構造を見てもそうだと思います。

 

少なくとも、現在進行形の福岡市長選挙においても、関心や投票率の低さ、そして集票システム頼みの選挙など、ひとり一人の意思決定があまりに低調な現状から考えて、強者中心のニセモノの民主主義だと言わざるをえないと思います。

 

なぜニセモノなのかと言うと、結果的に、権力、財力を持った特権階級によってコントロールされる政治になってしまっていることは、客観的に今の政治の権力構造を見たときにはっきりと見えてくることだからです。

 

では、いったいどうすれば、この状況を打開できるのでしょう。

 

かくいう私自身、こういったことに問題意識を持つまでは、独立した意思決定による一票の重要性など、特に考えもしませんでしたが、大きな鍵となるのは、やはり教育の問題だと思います。

 

普通選挙制による民主主義の政治体制は、今のところ、人類社会が発明した政治体制の中では最も妥当なものだと考えられていると思います。

 

その質を高め、ひとり一人の意思によって結び合わされる民主主義を創るには、教育の進化と人間の関係性の進化によって、共同体意識を高め、その共同体への自主的な参画意識を高めていくしかありません。

そのための教育と、そのための仕組みづくりが必要だと思います。

 

尊厳シティ構想が掲げる尊厳民主主義の理念からすれば、自らの意思を放棄することは、自らの存在、自らの尊厳を放棄するのと同じ意味です。

なぜなら意思を放棄した瞬間、そのひと個人の存在意義は消え去って、ただ集団の中に埋もれた集団の道具に陥ってしまうからです。

 

それが、個人の尊厳が満たされた社会と言えるでしょうか。

 

今の、世界的な金融資本主義の暴力という集団の力に埋もれた個人。

見えない国家の権力構造や利権にまみれた集団の力に埋もれた個人。

情報が隠蔽、歪曲され、意思決定能力を弱める情報社会の力に埋もれた個人。

結果的に、世の中や政治にあきらめ、無関心な社会の空気に埋もれた個人。

 

そしてそのスキをぬって、知らぬ間に大きな権力構造のつくる方向性に流され、結果として、暮らしや仕事、人生を破壊される個人。

 

今現在進行している格差社会の向かう方向性は、そのようなものではないでしょうか。

人間の尊厳性を破壊するそんな社会を、大反転させなければいけません。

 

ひとり一人の尊厳性、ひとりひとりの分離独立した意思決定によって、強者の意思のトップダウン型ではなく、ボトムアップ型で築き上げる、尊厳民主主義の仕組みづくりが必要です。

それが、大川ともゆきさんの「尊厳CITY福岡」構想の第5のステップです。

 

〈5.地域に根ざしたボトムアップ尊厳民主主義の仕組みづくり〉

地域から市政への参画意識と民意の反映の仕組みを強めるために、地域に根ざした段階的な対話と交流の場を設け、議会や市長ともオープンな直接対話の機会を増やします。

町内会単位、校区単位、7区単位などの場を通して吸い上げられた行政課題を議会と役所に反映させる、市民主体のボトムアップ型尊厳民主主義を進めます。


大川知之(おおかわともゆき)公式HP -尊厳City福岡-(福岡市長候補)

 

選挙があるときに一票投じるだけが、民主主義ではありません。

いつでも誰でも、自分たちの地域、自分たちの共同体に、個別的な利害だけではなく全体のバランスにも配慮しながら、民意を反映させる仕組みづくり。

それが、尊厳民主主義の新しい政治文化の挑戦です。

 

問題発見会議が、待機児童や高齢者福祉など具体的に存在するテーマ別に市民が参画する仕組みであるとすれば、こちらのほうは、地域という時空間別に、段階を重ねて市政に反映させる仕組みといえます。

 

町内会や自治協議会といった既存の地域の場を活かすか、新たな場を創るかといった手法は色々あると思いますが、例えば町内会単位での市政への意見が、代表者によって校区単位に吸い上げられ、さらに7行政区へと吸い上げられ、その意見、意思が、市長や役所、議会の構成員と、公開の場で共有され議論される仕組みです。

 

言うなれば、段階的な入れ子構造のようになっているイメージですね。

 

これは実は、素粒子が集まって原子になり、原子が集まって分子になり、分子が集まって細胞になるように、自然界の法則とも合致した、意思の入れ子構造の政治の仕組みづくりなのです。

 

その具体的な制度の構築は多くの人の議論のもとで出来ればよいと思いますし、最初は試験的に不具合も生まれるかもしれませんが、試行錯誤しながら、新しい政治文化として定着していく意義と可能性は充分にあると思います。

 

この制度は、どんなに低く評価しても、民意を反映しているようでいて実態はポーズだけになっている現在のトップダウン型の自由民主主義よりは、遥かに本来のデモクラシーの理念にあった仕組みだと思います。

 

先進国日本が、西洋の自由民主主義を越えて、人間の尊厳性と自立性を土台に、成熟した社会を築いて行くために、福岡発の尊厳民主主義の仕組みが築かれていくことを心から願います。