観術総合研究所 - 代表・内海昭徳(うつみあきのり)-

ひとり一人の尊厳性と可能性が花開く、尊厳社会へ

安倍総理の「70年談話」で謝罪と侵略の「戦後」に区切りをつけ、世界を「底上げ」する新たな日本への出発を

今日は、注目集まる安倍総理の70年談話に関連しての私見を書いてみたいと思います。

少し長めですが、よろしければ最後までおつき合いください。

70年談話で注目されているもの

1945年8月15日の敗戦から70年という節目で、日本の過去をどのように総括し、今から未来に向かってどのような方向性を示すのか、談話の意義はそこにあります。

 

溯って1995年、ときの村山富市内閣による「村山談話」以降、日本の歴代内閣は、村山総理が示した歴史認識を踏襲するのかどうかを常に問われ続けてきました。

 

そして安倍総理も、若干の紆余曲折はあったにせよ、全体として「村山談話」の内容と歴代内閣の立場を引き継ぐ、とはっきり言っています。

また同時に、「先の大戦への反省、戦後の平和国家としての歩み、アジア太平洋や世界へのさらなる貢献を書き込む」とも語っているとのこと。

 

これだけを客観的に見れば「談話」は特に問題ないと思うのですが、日本の朝日、毎日、東京新聞等や民主党社民党共産党、そして中国、韓国から注視されている具体的な要点があるようです。

 

それは、どれほど明確に「村山談話」を継承するのか。特に「植民地支配」「侵略」を認め、そこに痛切な反省からの「お詫び」をするのかどうか、ということ。

 

また、これらのキーワードを交え、安倍総理個人の声明ではなく、安倍内閣として閣議決定して出すべきだ、との議論もありました。

 

今の国際社会の中で、良い面悪い面含め近年の日本にない存在感を示している安倍総理の談話は、中国、韓国のみならず、他の多くの国々に対しても、そしてこれから先の日本の政治外交にとっても、影響力は大きなものになるでしょう。

 

特に安保法制の議論が沸騰している今だからこそ、安倍総理歴史観、世界観、未来観が改めて注目されている側面も大きいのだと思います。

 

ちなみに「村山談話」の全文はコチラから。

▶︎村山総理大臣談話

そして、「村山談話」での歴史認識のポイントとして議論に上げられるのはこのあたりですね。

 

わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。

 

ついでながら、戦後60年小泉内閣でも、「植民地支配」「侵略」「お詫び」というキーワードが同様に使われています。

▶︎小泉談話 http://www.kantei.go.jp/jp/koizumispeech/2005/08/15danwa.html

そもそも「談話」の何にフォーカスするべきなのか

さて、この「談話」をめぐって国内外でさまざまな議論があるわけですが、一体何が問題の本質で、そして語るべき内容と目指すべき未来像はいったいどんなものだろう、ということを少し考えてみたいと思います。

 

先に私のスタンスと理想像を簡単に言うと、私は、この「70年談話」を大きな区切りとして、「過去」の歴史認識が政治問題化される事態が収束に向かっていくこと、そして、過去よりも遥かに大切な「未来」への共通のビジョンについての議論が始まって、世界を「底上げ」する新たな日本への出発の端緒となることを願っています。

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日本の戦争や20世紀の世界の歴史認識を巡っては、国家民族や思想、イデオロギー、信念、利害など各人の立場によって、国内外でさまざまな観点が乱立し、衝突しています。

 

その中でも「村山談話」は、シンプルに言えば先の大戦について日本は悪かった、という反省の側面を明言したものです。

それは中国と韓国、そして国内の左派の観点からすればとても良心的な発言でしょう。

 

一方で、日本の近代と先の大戦について、一方的に日本だけが悪かったかのような歴史認識を内閣が認め続けてしまえば、日本の主義主張やあの戦争における大義名分は封殺され、それはアンフェアでバランスを欠いものではないか、という反対派の観点もあります。

 

安倍総理は特に一部海外メディアでは、歴史修正主義者のウルトラナショナリストのような印象を広げられているようなので、アベの本心としては「村山談話」で語られた日本の植民地支配や侵略を素直に認めたくはないはず、というようにも見られているのかもしれません。

 

それにしても、20年前の談話を基準にして、日本の歴代内閣はずっと「村山談話」をどう思うか、という、いわば「歴史認識の確認」をされ続けています。

そして歴代内閣は例外なくしっかりと「村山談話」を踏襲し反省する旨を発しているのですが、ここで私の中の素朴な疑問。

 

この状態は果たしてこの先いつまで続けられるのでしょう?

 

10年後も20年後も、あるいは50年後も100年後も、「村山談話」をどう思うか、という質問で、日本人と日本政府はちゃんと「植民地支配」と「侵略」に「おわび」の心を持っているのかを確認し続けるのでしょうか。

 

70年以上前の出来事によって、節目の時期がくるたびに、反省しているのかどうかを終わりなく確認され続けなければいけない国。

 

もしそれを一人の人間に置き換えて考えてみたとき、延々と過去の反省に束縛され続けるしかない人生は、なんとも不遇だなあ、と思うのは私だけでしょうか。

 

あるいは、戦争の痛みを常に心に留め続けることで二度と同じ悲劇を起こさないための確認の意味でその価値を認めるとしても、戦後70年も過ぎた今、それよりも遥かに大切なことは、どんな未来を描くのかという方面への意識の方向転換と、そこへのフォーカスではないかと思うのです。

 

談話の内容にこだわる言説を散見すると、「侵略」のキーワードが入っているかとか、心からのお詫びをするのかとか、意識が過去と局所的な部分の観念に極度にはまりこみすぎて、全く未来への明るさや希望、建設的な人間性の発現やビジョンが感じられません。

 

過去への言及には目を光らせていても、安倍総理がどんな未来の方向性を語るだろうか、ということに注目しているメディアなどないようにすら思えます。

 

今ここで、何に意識をフォーカスするのか、それが全ての事象を形作ります。

 

また、未来志向が良いとただ言葉を放り投げて終わるだけでもなく、どんな未来ビジョンを描くべきなのか、「談話」はそこに対してどんな言及をし、どのようにその内容を発展、具現化させることが出来るのか。そういった点にもっともっとフォーカスして欲しいものです。

 

決して合意点が見えるはずもない過去の歴史認識にまつわる議論ばかりではなく、歴史の教訓はしっかり踏まえた上で未来の方向性に力強くフォーカスできるような、そんな「談話」が生まれ、そのようにメディアが扱わないと、いつまでたっても本物の未来志向にはならないと思います。

 

「過去から来る発想」ではなく、「未来から来る発想」へと、談話の性質そのものが大きく変わっていくこと。大前提として、本当はそんな変化が必要なのではないかと思います。 

「過去の反省」から自由になれない構造

さて、ここから先はもう少し具体的な話。

私は歴史を専門に学んでいるわけではないので間違いもあると思いますが、何をどのように考えるべきなのか、ひとつの材料として続けてみます。

 

上で書いたような私が思う理想像の大前提があるものの、現実はなかなかそんな風には動きません。

その根本原因は端的に言えば、日本が「戦争に負けたこと」に尽きます。

 

20世紀の植民地帝国主義の時代の価値観でいえば、良い悪いではなく事実として、当時の世界の一流国は植民地を持つのが当然です。逆に言えば、そうやって上部構造のポジションをとれる国でない限りは、一流扱いはされません。

 

日本も黒船以降明治時代までずっと欧米の下部構造として不平等条約に悩まされ、さらに人種差別も根深くある中で、植民地化されないように懸命の近代史を歩んできました。

 

アジアで唯一近代化をなし得たからこそ、その延長上に必然的に直面した、「西洋近代」のルールの中で彼らと対等なポジションを確保できるようにならなければならない運命。

 

帝国主義の時代、日本は数百年先に植民地を全世界に築き始めた西洋の模倣をしながら、孫文が言うところの「西洋の覇道」と「東洋の王道」が複雑に微妙に同居する独特な役回りを演じなければいけなくなって行きました。

 

あの時代の歴史は、どこか一側面からの善悪や正誤だけの観点で固定しては、到底全体像が捉えきれません。

 

中国大陸ひとつとっても、もともとの大陸国家的特性、欧米各国による権益の確保、ソ連共産党コミンテルンの影響、毛沢東蒋介石の駆け引き、さまざまな軍閥による混沌と不安定、英米による秘密裏の後方支援、日本国内でのスパイの暗躍、日本の軍部の専断、戦争をあおったメディアや国民の問題、大陸各地でのゲリラや日本人の虐殺、また日本人の横暴や犯罪など、いろんな要素が渦巻いています。

 

そんな中で、満州事変以降の日本が、中国大陸全土への侵攻を深めて行ったのは事実だと思いますし、どの国であれ、権力を握った為政者がいつの間にか決めた戦争に巻き込まれた庶民の痛みや苦しみという観点でみれば、その悲劇は本当に大きなものだったと思います。そういう意味での政治的反省というのは、各国でそれぞれ必要でしょう。

 

韓国のことに言及するなら、韓国はそもそも日本と戦争をしていませんし、併合に至る過程や35年間の統治の評価は多面性があり今でも確定していないのも事実ですから、中国と韓国への歴史的経緯は全く異なり、本来、同列に論じられるものではありません。

 

そして、インドやインドネシアをはじめ、日本の戦争がきっかけとなって戦後アジア、アフリカの独立が進んで人種差別が軟化して行ったのも歴史の大勢として事実でしょう。 

 

それらをただ単純化して、東京裁判と占領政策の延長上で日本だけが悪だった、と位置づけることに対する抵抗感が日本の底流にはずっと流れ続けています。

 

日本は思想信条の自由がある国ですから、全国民が、あるいは全政権が敗戦国史観一色に染まりきらなくてもよいのですが、だから逆に中国や韓国から見ればいつまでたっても、日本は本当は心から反省していないんじゃないか、という追求が終わりません。

 

しかし歴史は常に、勝者の観点によって描かれるもの。

だからこそ、欧米の植民地支配の責は棚上げにしたまま、勝者の立場から「侵略国であり敗戦国」の日本の反省を確認できる「村山談話」は、色々な意味で政権の歴史認識のリトマス紙のようになっている側面があります。

 

総理大臣として節目ごとに「談話」で自分の歴史認識を表明することが必ずしも必要なのかも疑問といえば疑問ですが、日本の立場として、そうせざるを得ない事情に据え付けられているのもあるでしょう。

 

しかし問題は、中国にせよ韓国にせよアメリカにせよ、こういった個々の歴史の議論や実証で例えいくら共同研究を重ねたとしても、本質的に有効な解決策には絶対になりえないだろうということです。

 

なぜなら、各国の様々な歴史的背景や政治的利害も強烈にからむ中、それぞれの歴史認識を譲ることはまずありえないからです。

 

結果として、「村山談話」踏襲の確認はずっと続きますし、それを認めきれない日本の異論も消えることはなく、だからこそ歴史認識問題はどこまでいっても合意点に達することなく、永遠の平行線のまま、国益や思想、イデオロギーの摩擦が終わりません。

 

歴史のことは歴史家に、という意思を表明したとしても、外交関係をあずかる政治家としてある程度はやはり言及せざるを得ず、内政干渉だと反発したところで、アジアと欧米各国に迷惑をかけた「侵略国であり敗戦国」の日本としては、各国に配慮して対応しなければいけないという立場の業を背負ってしまっています。

 

ですから、「日本が戦争に負けた」という変えようのない歴史事実の中で、私たちは今までやってきた「村山談話踏襲の確認作業」の繰り返しから自由になれない構造にいます。

「戦後」を終えて、新しいステージへ

しかし、この日本の「戦後」は、そろそろ次のステージに大きく変化しなければいけないときでしょう。

 

70年もの間、公式に反省の意を表し続けたことは、ひとつの国の姿勢としてもう充分でしょうし、逆に反省だけではダメだと言う観点が根強く生き続けているのだから、その理由や正当性も汲み取れる新しい方向性を考えなければいけません。

 

そのために有効な「談話」がもし発されるのだとしたら、それは当然ながら、今までの発想とは異なるものでしょうし、その現実化も、今までと同じやり方では到底不可能です。大きな大きな常識破壊と、斬新な方法論、新しいビジョンが必要になります。

 

私は観術を伝えながら、創始者のNoh Jesuが訴えかける新しい日本の方向性としてのJAPAN MISSIONに共感して下さる方とたくさん出会いました。

 

また日韓VISION同盟の取り組みも日本代表として続ける中、過去を基準にした観点の束縛から完全に解放された日韓の若者の未来交流が可能であることにも確信を深め続けています。

 

そんな背景もあって、「戦後70年」の痛みと涙は、もう新たな希望とビジョンへと昇華するべきタイミングがはっきりと到来していると思っています。

 

そのために今日は、「談話」に関係して二つのテーマについて本質的なところを書いておこうと思います。

 

一つ目は、歴史認識に象徴される、強固な「認識の障壁」、「観点の障壁」をどのように解消して、長期的に融合しあうように出来るのか、ということ。

 

メディアの報道姿勢の問題もあって、過去の歴史の問題点にばかり強く観点をフォーカスされる現状がある中で、それらの問題自体はいくら研究し議論しても、論理的、感情的に解消する合意点が決して見えないことは、もはや明らかだと思います。

 

そして、問題がいっこうに解決しない根本原因を突き詰めると、それは歴史の理解や知識の問題ではなく、そもそも「認識とは何か、観点とは何か」というメタレベルのテーマに対する探究の不十分さにあるのです。

 

これは認識技術•観術が明確に体系化した教育体系の中で、人間共通の脳の認識機能の問題として、はっきりと解消法が完成しているので、ここでは細かく語りません。よろしければこちらのホームページもご覧下さい。

▶︎NR JAPAN株式会社 - 認識が、世界を変える

 

本質的なポイントだけ言えば、五感覚脳に固定された「無意識で自分が絶対正しい」と思うそれぞれの観点がある以上、摩擦こそすれ、本当の融合はできません。

 

自分の観点が完全にゼロ化されたところ、自分の思っている不完全な「絶対」がゼロ化されたところから、始めて相手の観点、相手の心を本当の意味で受容できるようになっていきます。

 

観点のゼロ化はとても深い意味合いがあって、最も本質的には、自分と自分が認識するこの宇宙自然に対するイメージが、完全にゼロ化されることを意味します。

参考にこちらの過去記事もどうぞ。

blog.kanjutsu.net

現実的に、観術をベースに活動している日韓VISION同盟の交流においては、日韓の若者が双方の「観点の違い」を越えた次元での交流を結び、共通の「未来ビジョン」へと向かう関係性を構築することに成功しています。

 

相互理解のために、日本人は韓国の独立記念館や南北軍事境界線を訪れ、また韓国人は日本の靖国神社遊就館を訪れるという、奇跡的な教育文化交流を実践しています。

 

その主目的は、どちらかの観点、主張が正しいという次元の交流や議論ではなく、双方の観点を正しく理解し合い、それを包み越えて、メタレベルの歴史認識で「未来ビジョン」に向かうことにあります。

 

こういった教育と相互交流ができれば、過去の問題には一定の対処と配慮をもって明確な区切りをつけて、政治的に「解決するべき課題」ではなく、当面の間「管理(マネジメント)するべき課題」として位置づける余裕が生まれてきます。

 

そして同時並行で、それと比較にならないほどに力強く手を取り合える「未来ビジョン」の同盟をいかに設定し実践するかという点に、観点のフォーカスを大移動させること、これが二つ目のテーマです。

 

例えば日韓関係を考える時、そもそも朝鮮半島全体をどう観るか、という大前提の捉え方の大きさと深さが非常に重要になります。まず大きな枠組みで考えてみましょう。

 

「正—反—合」の構造で観ると、もともと敗戦前までは、日本と朝鮮という二つの国があったのではなく、朝鮮も日本国の一部であったことは明確な歴史事実です。

 

その統治をめぐっての歴史認識の衝突が現状としてはあるのですが、それはひとまず置いておいて、過去のこの状態を「正」としたとき、このいわば「旧日本」は、敗戦によって戦勝国に完全に分断されました。

 

「旧日本」を崩壊、分断させた「反」に当たる勢力をシンプルに洞察すれば、それはソ連とアメリカに代表される、共産主義自由主義の二つの勢力であると言えます。

 

この二大勢力からのプレッシャーによって「旧日本」は分断され、北東アジアは今に至る70年間の戦後レジームが構築され、固定化され続けています。

 

そして未だに、そのレジームの中で仕組まれた日本と朝鮮半島(韓国)の分断と摩擦と確執は、新たな進展の方策と方途を見出せていません。これは中国大陸との近代の歩みにおいても基本的に同じことです。

 

「反」の勢力の影響下での戦後日本は、「平和国家」としての歩みを続け、様々な国際貢献をしてきた評価もできますが、しかし戦前との歴史の断絶や、政治、経済、軍事的にアメリカの下部構造に置かれた状態など、乗り越えるべき課題が残っています。

 

日韓、また日中韓、アジアが、この「正—反」の状態で留まっている戦後レジームの現状から脱却するには、新しい世界秩序を主導する「合」の世界への方向性を模索することと、それを胎動させ具体化させる道が必要ではないかと思います。

 

そのように考える時、過去の総理大臣談話においても、そして日韓、日中韓の関係においても決定的に欠落している要素は、実は「共通の理念、共通のビジョン」の不在という問題なのです。

パラダイム転換へのアジェンダ•セッティング

「戦後」を越え、欧米や共産主義自由主義の影響下から新しいアジアと世界を生み出すための「未来ビジョン」とは何かを端的に言うなら、それはアジアの涙、痛み、誇りを共有しながら、「西洋近代のパラダイムをアジアから超克すること」に他なりません。

 

例えばルネサンスに始まる西洋近代の歴史の中で、近代市民革命、とりわけ1789年のフランス革命に最も象徴される事象とは、いわば「国王の全体主義」から、啓蒙主義思想による「西洋的な個人主義」へのパラダイム転換にありました。

 

権利思想、学術•科学の開花を土台にした教育、経済、政治の影響力は、以後2世紀以上に渡り全世界を席巻し、社会システムとして浸透、定着しました。

 

これも「正–反–合」の構造で観た時、「正」に当たる「国王の全体主義」に対するアンチテーゼとしての「反」を「西洋的な個人主義」と観ることができますが、実は人類文明は未だにこの「正—反」の状態に留まっています。

 

今、これに対して日本から、アジアからの「合」のパラダイム転換の動きが必要であり、それは言うなれば「関係主義パラダイム」という表現に集約できます。

 

なぜならば、スマート技術、AIの進化も手伝って、「すべてはひとつ」であることは常識のハイパーコネクション社会が到来する現代は、個人主義(我)をどう超克し、関係主義(和)をいかに広めるかが、大きな鍵になるからです。

 

またこのように「個人主義」と「関係主義」という対称性で捉えた時、実は重要になるのは、「人間の権利」を確立させた西洋の個人主義的人間観を越える、「人間の再規定」という命題です。

 

なぜなら、現実的に「西洋近代」というパラダイムを超克する上では、今の近代文明の秩序や葛藤、問題を生み出しているその根源はどこにあり、いかにしてそれを乗り越えるのかという、大きく深い談論設定(アジェンダ•セッティング)が不可欠だからです。

 

西洋近代文明の根源で彼らが成し得た「人間の再規定」とは、「国王の全体主義」から脱し、啓蒙主義思想と権利思想に象徴される一個の人格としての「個人」でしたが、それは同時に自我の増長と私利私欲の追求を是認する「個人」でもありました。

 

それにより、「個人」の成功と幸福追求の中での物質主義、科学主義が地球を覆っていったのが、今日我々が享受し、また翻弄されている近代文明だと言えます。

 

しかしながら、脳科学やIT•ロボット技術、AIの急速な進化に伴い、脳神経細胞の電気信号作用をITと連結させることで、脳が認識する「個人•自我」の意識そのものがデジタル情報空間に置換•流出し、自分とは一体何なのか、人間とは一体何なのか、という「アイデンティティの危機」、「自他の認識崩壊の危機」という時代的課題までをも招来しているのが現代科学技術です。

 

そのような時代背景の中、これまでの「西洋の個人主義、物質主義、科学技術」だけに依存した教育、経済、政治のパラダイムでは、長期的に観て未来社会に希望が広がっていくとは考え難く、本質的には「人間の尊厳性の危機」という難題に直面しています。

 

また、個人主義と同根の問題である国家民族中心主義の教育がもたらす問題も、対症療法ではなく根本解決の路線によって解消されるべき時代ではないでしょうか。

 

世の中を変えるのは人間であり、人間を変えるのは教育です。

しかし西洋の学術と科学技術による教育では、生活の便利さは向上しても、このような今の時代の人間存在と人間の関係性の問題•限界には対応できません。

 

先進国において、深く安定した心の平安や、生きることの楽しみや慈しみの心、また主体性や創造性を向上させる教育が不足欠如している現状も踏まえれば、西洋の「個人主義」教育からの大転換を可能にする新たな道が必要でしょう。

 

個人や国家の観点だけに縛られず、人間共通の本質的尊厳性を自覚させ、その尊厳性を共通土台として関係性を結ぶことにつながる「人間の再規定」という巨大な談論設定は、重要な時代的課題だと思います。

 

だからこそ今、日本から、アジアからのNext Renaissanceとして、50年、100年後の境界線のない世界を見据え、国家民族中心の「観点の障壁」を超克できる「関係主義、心(精神)、認識技術」が必要であり、それらに立脚した新たな教育、経済、政治のパラダイムを築いていくことが、アジアが向かうべき共通の「未来ビジョン」であると思います。

日本が取るべき変化の方向性

もちろん現実の国際関係からすれば、中国、韓国がすぐにはこのようなビジョンにのってくれない状況は明らかですが、この本質的なアジェンダ•セッティングを開始することは、21世紀の未来社会で日本文明が本来有している本質深い普遍性を現代化して世界に広げるという使命において、非常に大きな意味を持ちます。

 

欧米には、資本主義やキリスト教のように、世界に対して普遍性を持って広げられた要素が強くありますが、日本の弱点としてそのような普遍性を持った具体的発信内容に乏しく、またそれも影響して、グローバルリーダーを育てるエリート教育がない問題があります。

 

西洋は近代革命を成功させて数学、物理学、経済学等を通して普遍的に自分たちの世界観とシステムを広げて行きましたし、弁護士や会計士といった専門職、車やITといった産業も、西洋由来のものです。

 

これから日本は、なぜ東洋からはそのような源泉となるオリジナリティが生まれてこなかったのかという洞察も踏まえて、軍事、政治、経済ではなく、今まで全くない概念、機能、イメージを取り入れた本質深くからの教育のソフトパワーの進化に取り組む必要があると思います。

 

そして、その新しい教育の力と和心の関係主義で、これまでの東洋の限界を越えて行く新たな日本の方向性を開いて行くことが重要でしょう。

 

国家と国家の外交関係、外交能力は、本質的には個人と個人の人間関係、関係構築能力のメカニズムと同様です。

 

NRグループの民間レベルでの日韓の相互理解は良い成功モデルが出来ていますし、固定された観点から自由になった人々は、国家民族中心の観点を越えて、100年前の日韓の歴史も柔軟に理解し合い、新しい日韓関係に向かって動き出しています。

今はまず日韓をモデルとして民間から取り組んではいますが、世界各国でも可能なものです。

 

日本は今、日本国内だけを観るのではなく、改めてアジア全体の共栄という観点からのリーダーシップを自覚し、また同時に、欧米が牽引してくれた近代文明への感謝を込めて、それを補完•進歩させる新たな国際秩序への道を率先垂範するべき時だと思います。

 

その中で日本と韓国•中国は、どちらかの観点が正しい、という関係性ではなく、どちらの観点も理解し合いながら、「未来ビジョン」に向かえる「関係性の次元上昇」の道を切り開くべき転換期ではないでしょうか。

 

その道は、日本が縄文の昔から培ってきた和心が最も美しく発揮される分野であり、ITとAIの進化によってひとつにつながりあって行く未来文明において、現代化された日本の文化文明の真価は世界基準の教育価値を有するものになって行くと思います。

世界を「底上げ」し、和合していく、大きな日本の心での談話を

70年前の敗戦に際して、日本は原爆を二発も落とされ、国土は焦土と化し、以後70年間贖罪を求められ続けるという、歴史上1番ひどい負け方をしました。

 

しかし日本国民は、あのとき天皇陛下のひと言で皆が潔く銃を下し、占領軍に対してテロを起こすこともなく、占領政策があったにせよ戦勝国アメリカからも虚心に学びました。この70年間、負けた側のモデルはもう充分に見せたと思います。

 

もう今からは、無意識深くまで植え付けられた敗者のアイデンティティをゼロ化して、新日本への輝かしい道を開拓すべき時です。

そしてそれは、未来社会において2度と戦争の惨禍が起こることのない恒久世界平和の世を開く、本来の日本の使命が勝利していく道でもあります。

 

もしも戦争の反省と責任を言うならば、単に日本の過去への謝罪の意味ではなく、人類の歴史の中で戦争という惨禍を終わらせることができなかったことへの人類史的な反省を踏まえ、戦争の根本原因である人間共通の脳機能の観点の問題から解決し、尊厳の関係性を世界に構築していく新たな日本の平和主義を宣言するべきだと思います。

 

今の時代常識から観れば日韓やアジア、世界が融合される未来などは到底想像しづらいことですが、認識技術をひとつのツールとして日韓の価値がひとつに融合され、欧米の自由主義共産主義を補っていく尊厳民主主義を成就させる未来像に、私たちは挑戦しています。

 

もし安倍総理が新しい日本の方向性を示されるならば、日本の観点の中での、日本のリーダーとしての表現だけではなく、和心で世界全体をOne Worldにさせていく大きな未来意志を秘めて、韓国、中国からの観点も理解し、彼らの想いも充分に受け止める大きな度量を持ちながら、もっと大きな日本の心を示して欲しいと願います。

 

日本、韓国、中国、アジアの良さを融合し、欧米にも感謝しながら、日本だけでなく、新しいパラダイムの世界のリーダーになる出発のモデルとして世界全体の和合に向かうような性質の「談話」であったら理想的ですし、メディアもこれからはそういったポイントにこそフォーカスすべきでしょう。

 

最後に、NRグループの会長であり日韓VISION同盟の韓国代表でもあるNohさんがとても印象深く観た好きな動画がひとつあるので、ご紹介して終わります。

 

いろんな解析ができる動画ですが、今日の内容とつなげたキーワードは、「底上げ」です。

 

日本人の繊細な「間の感覚」で、神業的な対称性のバランスを「底上げ」し続ける、この日本人女性。

 

どちらにも偏らず、どちらも両立させる対称性のバランスの中心にある「間」と「間」をつなぎながら、ひとつひとつ、芸術的な「底上げ」をして、一本一本、世界の秩序構築をしていきます。

 

この、「間」の力による底上げの感覚こそが、日本の和心、日本のミッションだと、Nohさんは提唱しているのです。

www.youtube.com

戦争を、単に侵略•反省とか自衛•解放といった偏りの中で語らない、「間」の感覚。

それでいて、どちらの観点もどちらの涙も誇りも抱擁して「底上げ」する観点。

 

戦前の日本と戦後の日本、という対立構造や善悪でとらえない、「間」の感覚。

戦前の長所、短所、戦後の長所、短所を融合させる「底上げ」の観点。

 

自由主義共産主義の影響下での分断、対立にはまらない、「間」の感覚。

どちらの性質も補いながら、南北朝鮮、中国、アジア全体を「底上げ」する新しいアジアのアジェンダ•セッティング。

 

全体主義個人主義の構造でとどまっている西洋を補完進歩する、「間」の感覚。

全体性と個人性の両方を活かす、和心の関係主義パラダイムによる文明全体の「底上げ」。

 

NRグループでは、この「間」の力による「底上げ」の感覚を人間開発の認識技術として教育体系化し、そこから職業化、産業化、社会構造や文明のイノベーションまでを目指して様々に活動しています。

 

今までの認識、考え、選択の「外」を取り入れて、新しい概念、新しいイメージを取り入れながら、新しい日本、新しい時代をスタートさせること。

 

例え安倍総理の談話内容がどうであれ、戦後70年の節目の日がその出発の日となり、そういう議論や気運が日本の中でどんどん活性化していくことを心から願います。

 

他にも具体的に書きたいことは尽きませんが、だいぶ長くなりましたので、ひとまず今日はこの辺で。

 

最後まで読んでいただいてありがとうございました。

 

今日の内容は本質論と未来構想で抽象的に聞こえた方もあるかもしれませんが、説明会やセミナー等でもお伝えしているNRグループの具体的取り組みに、興味を持って頂けたら大変嬉しいです。

blog.kanjutsu.net

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