いろんな情報が溢れ返る時代、未来に有用な選択をつかみとりたいのは誰しも同じこと。
自分の人生に真剣に向き合うのであれば、学びであれ、ビジネスであれ、パートナー選びであれ、その意思決定を未来にしっかりプラスにしたいと思うもの。
特に、大きなお金や労力がかかる選択であればなおさらのことです。
その選択ひとつが、人生を左右する、そんな選択を迫られることも当然あります。
しかし、それが本当に未来にプラスになるかどうかは、実際のところはやってみないとわかりません。
だからこそ、事前にいろんな情報をリサーチし、考え、比較し、シュミレーションします。
そして、よし、「可能性に投資」しよう!と。
これができるだけでも、大きなステップ。
そこまで踏み込めずに、迷い、同じステージをさまよい、堂々巡りのループの人生になることもまま有ります。
しかし最近思うこと。
よく言われるところの「可能性に投資」って、本物の投資じゃない。
投資するべき対象は確かにある。
そして、それを提供する側は、説明責任も遂行責任も当然ある。
でも、その「可能性に投資」するときに、心のどこかに、ある見えないワナがある。
そのワナは、「投資対象への依存」ということ。
自分がその意思決定をしたとしても、心のどこかに、「そうなったらいいな、それできたら投資したかいがあるな。」では主体性がないし、極端な話、「その可能性のおこぼれに預かれたらいいな。」という依存が隠れているかもしれない。
その無意識がある限り、その「可能性に投資」したことがしっかりリターンされるのかは疑問です。
なぜなら、本当の意味で、自らの意思で、その「可能性」を形にしようとしていないから。
その「可能性」が結実しなかったとき、それに投資してしまった自分を認めたくない無意識が、投資した対象や周囲の環境に対しての批判や否定に向かうかもしれない。
「こんなはずじゃなかったのに。」と。
それもそれでもちろん理解はできますし、いろんな要因がありますが、そもそも選択の出発点から依存があれば、その結果を招いてしまうのもまた理の当然。
だから、「可能性に投資」よりももっと大事なことは、自らの意思による
「創造性への投資」
ではないかと思うのです。
だって、「自分が決めたこと」なのだから、本来当然といえば当然。
あなたが言ったから、とか、世の中がこうだから、とか、「自分じゃない何か」を自分と分離させて、その「対象」のせいにするのは本質的にはスジ違い。
100%、今ここで、自らの意思決定で自分の人生を再創造し続けられているのだという感覚があって、喜んでその責任を負う。
どんな世界であれ、成功したり、プロになったり、花を咲かせているひとは、自らの人生への「創造性への投資」の心が当たり前のようにあるのだと思います。
自分自信が意思決定して、自分自身が可能性あると感じた対象に、自分自身の創造性を完全に投資しきろう。
それで、成功しようが失敗しようが、例えのたれ死にしようが、それで本望。
だって、「自分が決めたこと」なのだから。
結実したらよし、しなかったら、それを糧にまた成長すればよし。
自分自信の「創造性に投資」する意思決定ができたとき、人生を変える力は本当に自分のものになるのではないかと思うのです。