観術総合研究所 - 代表・内海昭徳(うつみあきのり)-

ひとり一人の尊厳性と可能性が花開く、尊厳社会へ

「君の名は。」新海誠監督の世界観の結晶、本質深ーーーく観るべし!! *ネタバレ・あらすじ含む。

新海誠監督の作品、「君の名は。」を観てきました。 

www.kiminona.com

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新海さんの作品はこれまでいくつか観たことがあって、その深く美しい世界観がとても好きだったのですが、今回の「君の名は。」は、自分の中でも衝撃的なレベルで最高でした。

間違いなく日本のアニメ史の金字塔として後世に残る名作だと思います。

 

思わず心の中から湧き出る感動を書き留めてみたくなったので、多量のネタバレ含めて勝手に思うままつらつら感想とストーリーに対する解釈など書かせていただきます。

 

映画の余韻を自分の世界の中で感じていたい方にとっては蛇足だと思うので、閲覧注意にて!

 

世界観と描写の圧倒的な深さと美しさ

 新海作品の特徴は、よく言われるその自然描写の圧倒的な美しさ。

 

都会の街並、田舎の懐かしい風景、天空の幻想的な遥けさ、ひとつひとつ、ため息が出るような精緻で美しい描写をされます。

 

光が差し込むときの僅かな影の陰影や水面の反射、登場人物の三葉が部屋で立ち上がるときに光に照らされて一瞬かすかに輝く埃ひとつの描写など、どこまで繊細な感覚でこの世界を観ているのか、まったく見事というほかありません。

 

手前勝手な憶測ですが、新海誠さんという方は、この世界がいかに美しいものなのか、そしてその美しさがいかに鮮烈で、同時に儚いほど脆弱なものなのか、魂の底から感じられた方なのではないかと思います。

 

ご本人のインタビューを動画で拝見したとき、若い頃に山あいに沈む夕陽の美しさに、訳も分からず涙がこぼれ出た、という旨のことを話されていました。

 

そして同時にそのとき、この世界との一体感のようなものを感じたと。

 

心の深い感覚で、この世界がすべてひとつでつながりあっていて、その壮大な何かの一部としての人間の美しさとか、この世界の造形の美しさとか、そういったものを言葉を越えて直観的に感得した人でないと、あんな世界観は描けない気がします。

 

新海さんのそんな趣旨のインタビューを観たとき、彼の作品、作風がなぜあれほどまでに叙情的で純文学のような美的センスで描かれているのか、その心の感覚の深さの理由が分かった気がしました。

 

「今・ここ」を、いかに美しく観ることができるのか。

 

ただ目で「見る」だけの五感的な世界認識だけでなく、より深い心の感覚から「観る」とき、何気ない風景ひとつひとつが、どれほど美しく奇跡的で壮麗なものなのか、感じ方は全然変わってきます。

 

秒速5センチメートル」や「言の葉の庭」もそうですが、新海さんの作品を観たあとに観るこの現実世界がいつもよりも何か美しく感じるのは、きっとご本人の世界認識の原体験のイメージが、作品を通して私達に流れ込んでくるからなのでしょう。

 

 楽曲と映像、ストーリーの完璧な調和

主題歌はじめ映画内の挿入歌を担当されたRADWIMPSというアーティストは、私はこの作品を通して初めて知りました。

 

映画の中で、絶妙なタイミングとメッセージ性を持って流れる4つの曲。

 

「夢灯籠」「前前前世」「スパークル」「なんでもないや」のそれぞれの歌詞を観て、「君の名は。」のストーリーやメッセージ性とのマッチングもさることながら、作詞作曲の野田洋次郎さんという人物のもともとの世界観もまた、とっても深く本質的で優しさに満ちたものなのだろうと感じました。

 

特に私は自分が伝えている観術のイメージから観てしまうクセがついてしまっているせいもあって、そこから観た映画と楽曲のメッセージ性の深さがとにかく嬉しく素晴らしく、大感動ポイントでした。

 

君の名は。」は、見る人の年齢や世界観によって、さまざまな感動や、それぞれが「生きる」ということに、そっと背中を押してくれる温かさがある映画だと思います。

 

私が観に行ったときは10代、20代の人が割合多かったように思いますが、特に主人公の瀧や三葉と同年代の高校生、大学生にとっては、深く感じるものがきっと沢山あるのでしょうね。

 

新海さんの全作品を通した中心のテーマのひとつは、「出逢いと関係性」だと思います。

 

そして、その「出逢いと関係性」の物語の中には常に、「時間と空間」という背景要素の作用が、実に絶妙に結ばれ、埋め込まれています。

 

今回の映画でも、「時間」の本質というものがストーリーの決定的に重要な要素として描かれています。

ねじれたりからまったり、戻ったりつながったり、それが時間、それがムスビ、と。

 

実際「君の名は。」では、いくつかの異なる時空間がストーリーの中でねじれたりからまったり、戻ったりつながったりしています。

 

過去、現在、未来、と、単線的に流れるひとつの物理宇宙だけが実在ではない、という世界観。

いくつかの並行宇宙が時空間のねじれ、からまりとして、あたかも組紐を編んで行くように、徐々に美しく物語を紡ぎ出していきます。

 

その物語に楽曲の立場から見事な色彩と立体性を際立たせるRADWIMPSの歌詞も、なんとも深い趣のあるフレーズが散りばめられています。

 

「夢灯籠」では、

5次元にからかわれて それでも君をみるよ

また「はじめまして」の合図を 決めよう、と。

 

「前前前世」では、

君が全部なくなったって チリジリになったって

もう迷わない また1から探し始めるさ

むしろ0から また宇宙をはじめてみようか、と。

 

「スパークル」では、

運命だとか未来とかって 言葉がどれだけ手を

伸ばそうと届かない 場所で僕ら恋をする、と。

 

そして「なんでもないや」では、

僕らタイムフライヤー 時を駆け上がるクライマー

時のかくれんぼ はぐれっこ はもういいよ、と。

 

とーーっても本質的で、かつ切ないほどに、人間の出逢い、別離、すれちがい、そして再会の美しさ、哀しさ、感動といったことを、優しく表現されています。

 

4次元宇宙の時空間の因果を越えて、もっと深く本質で永遠(とわ)に変わることのない、何かの縁(えにし)によってムスビ会う心と心。

 

映画の中ではそのひとつの象徴が、三葉の組紐によって描かれているのだと思います。

 

高校生の瀧と三葉が出逢う前に、彗星が落ちる前の日、まだ3年前の中学生だったころの瀧に三葉が会いに行って、そのとき瀧に手渡された組紐が、映画のラストまで時空を越えて二人の出逢いをむすぶ糸になっているように。

 

それは別次元の宇宙を越えて瀧と三葉を結ぶ心であり、1000年の時空を越えて二人の出逢いをむすびつける宮水の家の組紐の伝統に託された魂であり、そして天空の彗星が約束した二人をむすぶ宇宙と生命の流れの糸でもあります。

 

そういったものを、楽曲で、そして映像で、幻想的に、暗示的に調和させる作品の完成度の高さが、素晴らしいなあ、と感嘆しきりです。

 

別次元の時空間の並行宇宙がムスビあう、「君の名は。」のメッセージ性

さて、ここから先は、私が抱いたストーリーやその世界観、メッセージ性への解釈です。

 

君の名は。」もそうですが、新海さんの作品の中には、物理学でいう並行宇宙の概念がはっきりと取り入れられています。

 

代表作である「雲の向こう、約束の場所」は、まさしく並行宇宙の宇宙観を基軸に据えたストーリー展開になっていました。

 

量子塔の作用によって他世界の並行宇宙へと次元が反転してしまう「約束の場所」での主人公の二人の再会の出逢い。それは同時に代償として、以前の記憶が喪失されてしまった哀しみの出逢いでもありました。

 

そのモチーフは、「君の名は。」でも色濃く反映されていますが、今回のラストがどうなるのかは、新海さんの以前の作品のラストを知っている人たちからすると、かなり最後までドキドキだったのではないかなあと思います。

 

私達の日常感覚、脳が認識する物理宇宙の宇宙観では、時間の流れは過去から未来へと一直線の一次元方向で、それが戻ったり絡まったりすることはありません。

 

でも、それは本当に絶対的に真実だと言えるのか?

 

そもそも日常的に意識している宇宙や時空間の絶対性だけでは、説明しきれない問題は実はたくさんあるんじゃなかろうか?

 

これは実際、今現在の最先端物理の世界でも、また心の世界でも、専門的に探究されている領域の話です。

 

その世界観、宇宙観の一端は、「君の名は。」の冒頭のほうのテッシーの発言、「エヴェレットの多世界解釈に基づくマルチバースに無意識が接続したー」という、さらっとしたセリフの中にぐいっと深く表明されています。

 

ここのところのイメージと理解があると、「君の名は。」の楽しみ方は、その深さがひとまわり全然変わって感じられるのではないかと思います。

 

以前このブログでは、映画「インターステラー」の感想と解釈を書いたことがありましたが、あれと共通する要素が多々あります。 

blog.kanjutsu.net

 奇しくもRADWIMPSの歌詞の中にある、「5次元にからかわれて」というフレーズ。

 

インターステラー」でも、4次元時空を越えた特異点の外の世界、5次元の世界に行った主人公クーパーが、時空を越えて過去時間宇宙の愛する娘にメッセージを送り、出逢おうとするシーンがあります。

 

インターステラーでは、その別次元の出逢いの「間」が、父から娘に手渡された時計であり、モールス信号だったのですが。

先に書いたように、「君の名は。」では、その象徴は組紐として描かれていると思います。

 

ちなみに5次元というのはれっきとした物理学の研究対象概念です。

 

インターステラーでは、その5次元の世界を同時に、時空を超えた「愛そのもの」としても描いたわけですが、「君の名は。」でもやはり、瀧と三葉の時空を超えた愛として、そして深い出逢いの意思として、人文的な要素を含ませて見事に描写しきっています。

 

既に彗星が落ちた後の時空宇宙に住む瀧から、彗星が落ちる3年前の糸守に住む三葉の時空宇宙へと、彗星被害の大惨事を避けて三葉や糸守の人々を守るための身体の入れ替わり。

 

それは2つの並行宇宙の時間がねじれた、未来時間の瀧の宇宙から3年前の過去時間の三葉の宇宙への、次元を越えた移動です。

 

いうなれば眠りによってワームホールを通過するタイムトリップのようなものとも言えるのでしょうが、ストーリー上、それを可能にさせている背景要素が、瀧と三葉がお互いに「出逢いたい」というその深く強い意思が中心あることが、観る人がそれとは自覚しないかもしれない無意識深くの私達の心のヒダを、かなり振動させるように思います。

 

出逢いの意思、それが本当は、私達の人生にとってどれほど大切で、美しく、決定的なものなのか。

 

自分の魂のカタワレとして、糸守の巫女の伝統によって導かれ結ばれた「口噛み酒」のある種の霊力によって、二人はほんの一瞬の、ありえない奇跡の出逢いを果たします。

 

それすらも、1000年前の彗星落下から宮水の伝統に継承されてきた、約束された出逢いであることを暗示させながら。

 

瀧が三葉に入れ替わる刹那、倒れる瀧が洞窟の壁画に観る彗星の洞窟画が、瀧と三葉の出逢いは、宮水1000年の先人たちの意思すべてが込められた「託された想い」であることを示唆します。

 

遠い未来、再び彗星落下による惨事を起こさないため、宮水の巫女に与えられた、時空を越えた入れ替わりの力。

 

いにしえから守り継承され続けた組紐の伝統とともに、その「ムスビ」の精神が底流に脈動していたストーリーの深さが浮かび上がってくるシーンですが、原作脚本を書くにあたって、新海さんはどんな想像力を働かせたのだろうかと、これまた感嘆せざるをえなかったところです。

 

三葉のお父さんは宮水の神職を捨てて町長になったわけですが、結果的に、彼が町長の立場にいたからこそ、三葉の懇願が受け入れられて住民の避難が成功したのは間違いのないことです。

 

そうすると、父親が婿入りしたこと、母親が若くして他界したこと、それをきっかけに父親神職を捨てて政治家になり意思決定の地位を得ていたこと、そしてその娘の三葉に、1000年の時を越えて糸守を守る入れ替わりの力が託されたことなどが、まるで予定調和であったかのように、ストーリーの見えない背景として連鎖して広がって、想像力をかき立てて行きます。

 

現象的に観れば何の意味があるのか分からない、古式ゆかしい形式的な因習。

近代的な価値観からすれば廃れていく一方の、過疎の田舎の意味もわからぬ伝統。

その時点だけを観れば悲劇的な人間のすれ違いや不和、人間関係の断絶。

 

そういったものも、もっと深い世界から観れば、実はよりもっと大きく包みこまれるような壮大なムスビの物語の一部で、まさしく一本一本は独立した一次元の糸がより合わさって、ひとつの二次元平面の幾何学模様美を織り成すように。

 

私達が意識の世界でただ短絡的に判断する価値観や、善・悪、といった二元的なものの見方では到底およびもつかないような、大きな大きな意思のものがたりが流れている。

 

ほんとに、人間の意識の日常レベルの人生観なんてほんの一部で、まさしく「5次元にからかわれて」、その目には見えない大きな出逢いと愛の意思が、人生を織り成している力であるかのようなメッセージを感じるのです。

 

運命論なのか、自由意志なのか? 

そうなると、ひとつの哲学的なテーマがアタマをもたげます。

 

私達の人生は、そういった何か大きな目に見えない力によってあらかじめ決められている、決定論、運命論的な世界なのか。

 

はたまた、自らの思い、選択ひとつで変化を、未来を創造していける、自由意志論的な世界なのか?

 

これはキリスト教の世界観のひとつのテーマでもあるでしょうし、物理学で議論されたラプラスの悪魔のような問題にも通じます。

 

この命題に関心がある人には今も現在進行形で議論されているのでしょうが、新海さんの世界観には、この要素が潜んでいるのを感じてしまうのですね。

 

それは「雲の向こう、約束の場所」の中でも、不確実性が支配する量子的世界から、多世界宇宙が分岐して並行宇宙が生まれるという表現で触れていたことからも察することができます。

 

量子論は、観測者の認識作用が、波束の収縮が起こる存在の状態と密接不可分に結びついている世界観。

 

それは既に論理的にも実験の上でも、はっきりと証明されています。

 

そうであるなら、存在の状態を「決定づける」認識作用こそが、人間の自由意志の現れと言えるのか?

あるいは、その人間と観測行為すらも、もっとメタレベルの「何か」からしたら、運命論、決定論の中にすでに取り込んでいる作用のひとつに過ぎないのか?

 

この複雑なテーマに対して観術が解き明かした論理イメージ体系もあるのですが、新海さんの世界観を覗き観ると、

「どっちもあるし、どっちも同じようにとっても大事。」

という観点なのかなあ、と思います。

 

運命論な観点でみれば、先に書いたように、宮水1000年の伝承によって、そして「組紐」が二人の異次元宇宙をむすぶ縁(えにし)のツールとしての役割を果たしているように、全てが「出逢う前から約束された出逢い」であったように観えるからです。

 

でも、主題歌「スパークル」のフレーズを借りるなら、「運命だとか未来とかって言葉がどれだけ手を伸ばしても届かない場所」で僕ら恋をする、というメッセージもあります。

 

運命になんか縛られない、未来はこうなるっていう決定論なんかにしばられない、そんな因果を全部越えたところにあるお互いの愛で、意思で、運命も未来も変えてやろう!っていう、とっても前向きな生きる姿勢と心の構え。

 

それは、この現実に翻弄されて、美しくもがきながら生きている私達一人ひとりにとって、「運命なんか、未来なんか、自分たちの手で変えていけるし創っていけるんだ!」っていう、新海さんからのエールのようでもあります。

 

映画の中では、既に彗星が落ちて三葉も死んだ「既に起った世界の運命」、そして、このままではみんな死ぬ、と、入れ替わりが起った三葉だけが知っている、「これから起ころうとしている世界の運命」がある。

 

その破局の運命と未来を変えるために、二人の意思が力強く鼓動し、そして結果的に、「彗星落下被害を回避できた、別の並行宇宙」を新しく誕生させることになります。

 

意思で切り拓き創造する、希望が生きているそんな宇宙を、「また0から宇宙をはじめてみようか」というメッセージにのせて。

 

ちなみに「雲の向こう〜」では新海さんは並行宇宙のことを、「宇宙が観てる夢」と表現していたと記憶しています。

 

あの作品の結末から一歩進んで、お互いに対する顕在記憶もゼロ化された新しい宇宙の中でまた出逢うために、「それでも君をみるよ また「はじめまして」の合図を決めよう」と、「君の名は。」は、物語のラストへと向かって行きます。

 

「ー君の、名前は。」その出逢いの美しさと奇跡

3年の時空がずれた心と身体の入れ替わりの世界で、宮水1000年の意思が託された二人の運命。

 

そして、その運命のままでは、破局と死によって二度と入れ替わりも出逢いもできなくなる、二人の運命。

 

その運命に立ち向かうために、入れ替わりで出逢うまえに組紐という縁(えにし)をむすぶ出逢いを果たしておいた3年前の二人の運命。

 

そのムスビの意思をたどって、三葉の運命を変えるために「約束の地」宮水のご神体に向かう、瀧の決意。

 

そこで起こる入れ替わりよって、本来出逢うはずのない3年ずれたはずの二人が一瞬だけ直接出逢うことができる、「カタワレ時」の奇跡。

そこでお互いがお互いの無意識の心深くに刻み残した、深くピュアな愛の想い。

 

その想いを力に変えて、彗星落下の当日、それぞれが果たす役割によって入れ替わりながら「運命」を変え、糸守を救った、瀧と三葉の未来への意思。

 

その結果新たに0から生まれた、三葉が生き、瀧も生きているという、瀧のもともとの時間と並行はしているけれども全く違う、「二人が直接出逢うことが出来る時空宇宙」。

 

3年の時空がずれながら身体が入れ替わっている間は、決して直接に身体と身体で出逢うことは叶わない、「本当の出逢いが不可能な世界。」という限界。

 

そんな限界の全てを乗り越え突破して0から再創造された、「二人が直接出逢うことが出来る時空宇宙。」誕生の奇跡。

 

でも、お互いの意識の中には、お互いの記憶は残ってはいない。

 

それでも、何かを探している。何かを感じている。

 

出逢うべき人、出逢うべきこと、それが何かは分からないけれど、その何かを自分は心深いところできっと必ず知っている。

 

そこに自分が生きる意味があり、この現実で美しくもがきながらも生きている理由がある。

 

その、出逢いのために。

決して出逢うことが出来なかったはずの、出逢いのために。

 

出逢いたくても出逢いたくても出逢うことが不可能なはずだった、出逢いのために。

 

君に逢うために、私はここに来たのだと。

君に逢うために、私はここにいるのだと。

 

私達はきっと、会えば必ず、お互いにすぐに分かる。

 

その二人が無意識深くに約束している、はじめましての、再会の合図、

 

「ー君の、名前は。」

 

その一瞬の出逢いは、全宇宙が感動する、奇跡の瞬間。

 

2人の心がひとつになった、その瞬間。

2つの別々の宇宙で生きていた世界が、本当にひとつになった、その瞬間。

 

生きることがいかに美しいのか。

出逢うことがいかに美しいのか

 

最高のラストシーンとエンドロールの余韻の中で、世界中の人に観て欲しい映画だと、心から思いました。  

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